2017年6月16日金曜日

D氏による合気論(その2)

私が最近、植芝盛平翁の演武を動画で見ていて思うことは、あの誘いの見事さです。まるで受けが吸い込まれるように、技がかかり、投げ飛ばされます。

大東流では、わざわざ掴まれる、あるいは掴ませるために手を差し出すようなことはしません。合気道は、掴みに来る相手に対してわざわざ手を差し伸べて掴ませます。大東流では、相手が掴みに来るところを、ぎりぎりまで待って、後の先で手を出し、相手の手が触れた瞬間には技がかかっている。というように、手の出し方に違いがあります。

植芝盛平翁は手を上げ、手を差し伸べ、受けはその手を・掴もうとします。しかし、その手を掴むことはできません。わざわざ自分から投げられるように体が宙に舞います。その時の植芝盛平翁の動きの美しさといったら、言葉では表せません。歩けば合気、手を上げれば合気、全てが合気だと言われました。大男が植芝盛平翁の気に吸い込まれるのです。触れることも無く、投げ飛ばされます。これは大東流的に言えば究極の合気ではないかと思います。気が気を誘い、それらが一つになり、正に合気となり、合気がかかった状態となったのではないかと。これはもう敵ではありません。私と一体です。植芝盛平翁はある時、稽古の後、井戸端で体を清めていた時に天から金の雨が降り注ぎ、感激のあまり涙した、ということを言われました。

武は愛だ。合気道は愛の武道だ。「合気とは、敵をして戦う心無からしむ、否、敵そのものを無くする絶対的自己完成の道なり」と合気道の精神に書かれています。私は動画を見ていて、気で気を誘い気が一つになる植芝盛平翁の美しさを感じました。しかし、その究極に至るための筋道として、手先や手の甲や肘など、自分の五体で相手の首や肩や、時には目にも合気をかけることも技化しなければならないのです。それが今、私が頑張っている大東流合気柔術維心館天野道場にあるのです。合気をかけることを技化して、無意識のうちに合気に掛けるようになれば、大東流の触れ合気に少しでも近づくことができると思います。

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